コラム

2004/03/02

寺子屋に見る教育(水・YH)

2004.03.02 【寺子屋に見る教育】

▼水戸・偕楽園の梅も5分咲きとなりほのかな香りを漂わせている。時候の挨拶ではないが「春光うららかに花の便りの聞かれるこのごろ」となってきた。同時に卒業式の時期でもある

▼さて近年の卒業式では「仰げば尊し」の歌を聴くことは皆無と聞く。何故だろうか。そもそも「師」とは道を説き、過ちを質し、導いてくれたはずでは。そうした「師」に感謝する事はないのだろうか。それとも「師」がいない。「蛍の光」や「君が世」などの斉唱よりは、真摯に歌えた唱歌ではなかったか。時代は変わった

▼一説ではあるが、教育の根本が変わったという。日本の本格的な教育は江戸時代の「寺子屋」に始まったとされる。日本文化に根ざしたこの教えの基本こそが明治維新や太平洋戦争後の見事な復活を成し遂げた要因と。さらに戦後のアメリカ的教育法こそが今日の「師」の腐敗や少年の犯罪を生んだ要因だとしている

▼「寺子屋」では「師」は村役人、浪人、僧侶、神官、医師などと幅広い職種の人が努めた。文字通り日本の歴史に添ったシステムにあった。しかも「読み、書き、そろばん」等生活の基本を中心に「道徳」教育も怠ることはなかった。儒教に基づく「人の道」を教えた。難しいことは言っていない。「悪いことをしたら謝りなさい」「弱い人は助けなさい」等々

▼江戸時代の中心地・江戸では男子の86%、女子でも30%が寺子屋に学んだというから驚きである。大らかなシステムこそが大きな人を作ったに違いない。おしなべて近年、師は少なく、天真爛漫とする子供も少なくなった。何時の世も問題は自らのこと。己を戒めたいと思うのだが。(水・YH)

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