コラム

2005/05/28

私の残りの年さしあげます(本・MM)

2005.05.28 【私の残りの年さしあげます】

▼敗戦から60年の今年、遺品が保存してある知覧特攻平和会館(鹿児島県知覧町)を訪ねた。会館には60年前の出陣前夜の写真や手紙、日記、遺言、時世の歌が保存されている。勇士たちは、わずかの滞在ののちに、片道切符の沖縄方面へと飛び立った

▼昭和20年春、硫黄島を占領し沖縄に上陸した米英連合軍に対して、最悪の戦局を迎えた日本は、この劣勢を一挙に挽回すべく特攻隊を強化。沖縄にもっとも近い、本土最南端の鹿児島県知覧飛行場を最前線の陸軍特攻基地とした。隊員のほとんどが17歳から22歳だった

▼「おばさん、私の残りの年をあげますから、長生きしてください」。おばさんとは、隊員のだれからもお母さんと慕われた、軍の指定食堂「富屋食堂」の鳥浜とめさんのことである。隊員たちは皆ここで、出撃前の腹ごしらえをした

▼「お父さん、お母さん、新平何1つ思い残す事はありません。唯御国の為にりっぱに死ねる喜びで一杯なのです。唯一つ心配なのは、半年の間に2人の子供を失うお父さん、お母さんの事です。苦労ばかしおかけしたお父さんお母さんに、これからはうんと親孝行をしよう・・いつも兄さんといった言葉でした」。継母に「お母さん」と手紙で呼びかけた隊員、若い妻を頼むという遺言もあった

▼別れの盃を頂き、飛行機に250キロの爆弾を着けた特攻隊は、「薩摩富士」と呼ばれる開聞岳を目印に飛びだった。この山に挙手の礼を捧げて行った。学校を卒業したばかりの若桜は国家危急を救おうと生死を超越して出撃していった。今年は特攻の母「とめさん」を主役にした映画作りも予定されている。(本社・MM)

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