コラム

2005/08/19

日暮里に残る子規の感性(本・MM)

2005.08.19 【日暮里に残る子規の感性】

▼人生も50歳を過ぎると身体がきしみ出す。掛かり付けの社会保険病院鶯谷センターにお世話になって早10年。今やすっかり「薬」の世話になっている。「春風や根岸の寮に女客」。ここを歩くたびに、風流な俳句が目に入る。後にも先にも俳句を諳じたのは「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」だけ

▼明治の俳聖「正岡子規」が、故郷の松山市から、ここ日暮里、鶯谷、根岸あたりに転居したのは明治27年のこと。現在のJR山手線、日暮里駅東口近辺だった。鶯谷センターの真裏にあり、中高層住宅に、はばかるかのように木造平屋建て庭付きの「子規庵」がひっそりたたずむ

▼34歳で亡くなるまで8年間過ごした、終焉の間6畳には、辞世の句「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」が残っている。長い間病魔カリエスに苦しみ、晩年はほとんど病床にいた。庭先のヘチマは当時咳止めに効いたという。子規が元気なころ、通ったという豆腐料理の笹乃雪、文政2年創業の羽二重団子(はぶたえだんご)も近くに健在だ

▼ここは昔から清閑な場所で「根岸の里のわび住まい」といわれた。春はウグイスが鳴き、夏は蛍が飛び交い、秋は紅葉が色づく。絵画のような雪景色、冬のさざんか、梅の花も美しいと聞いた。子規は「雀より鶯多き根岸かな」と詠まれた

▼「日が暮れての里」らしく、日暮里近郊を子規は「妻よりも妾の多し門涼み」と詠んでいたというから、今の鶯谷ホテル街のネオンと、斜めによぎる狭い裏道や丁字路が秘めやかさを醸し出すのを、わきまえていたと見える。寺が多く昼は死者へのお経が聞こえ、夜は「死ぬ死ぬ」と悶え声が交差する「人の世の里」でもある。(本・MM)

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