コラム

2006/02/24

織田有楽斎にみる人生観(水・KK)


▼信長、秀吉、家康という英傑、天下人と言えば、毎年どこかのテレビ局に取り上げられ、不動の人気がある。経営者やビジネスマンの中にも彼らの生き方を人生の指針にしている人も多いだろう

▼戦国時代、戦に敗れれば討ち死か自害。捕らえられれば斬首されるのが定めだった。諸将は全てか無かの苛酷な時代を必死に駆け抜けた。しかし、名を捨てしぶとく生き残った武将もいた。信長の弟で武人としてより茶人として有名な織田長益もそんなひとりだ

▼長益は兄信長の死後出家して有楽斎と号した。東京・有楽町は彼の江戸屋敷があったことからつけられた地名である。長益はさしたる武功は挙げなかったが、温和で誠実な性格から兄信長をはじめ秀吉、家康の天下人から信頼され、調停役として重宝がられた

▼戦国の世には稀な和平論者だった有楽斎は大坂の陣で姪である淀君とその子秀頼に家康との不戦を説いた。しかし逆に、卑怯者、軟弱者のレッテルを貼られることになる。ついには、関東方のスパイとの噂が流れるに至り彼は大坂城を去り、茶人としての人生を選ぶ

▼大坂城が落城し、名実ともに徳川の世が始まると、有楽斎は大和3万石の所領のうち、1万石を四男の長政に、1万石を五男の尚長に与え、それぞれが芝村藩、柳本藩として小藩とはいえ明治維新まで続いた。1億総中流から、勝ち組、負け組がはっきり分かれる時代へと変わったと言われる。しかし人には、器というものがあり人生観もそれぞれだ。勝ちもせず、さりとて負けもせず、ライフワークを極める。織田有楽斎の生き方は現代人にも通じる理想なのかもしれない。  (水・KK)

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