コラム

2006/07/10

難事業の上にある生活(前・HM)


▼真っ直ぐな一本道、両側に植えられた木々の向こうには広大な田園風景が広がる。視界を遮るものは何もなく延々と田んぼが続く。空が広い。ここは秋田県大潟村、八郎潟を干拓して造った大農耕地。年間4万5000tの米を生産している

▼筆者の妻の両親は秋田県出身。今年百歳になる祖母に会いに4人で旅行した折りに立ち寄ってみた。実際に目の当たりにすると、想像以上の広さに圧倒される。とても人の手が造った土地とは思えない

▼これまで、大潟村は八郎潟を埋め立てたものと思っていたが、それは勘違いで、堤防をつくりポンプで排水する「干拓」が正解。そのため大潟村は海水面よりも低く、道路脇には「日本一低い山」として標高0mの小山が造られている

▼八郎潟干拓の歴史は古く、江戸時代にはすでに一部で行われていた。最も深いところで水深5m以下だった八郎潟は干拓に向いていたのだろう。明治以降に湖全体におよぶ大規模な干拓計画が数多く立案されたが、財政的な問題や戦争などにより実現しなかった。1952年(昭和27年)、八郎潟干拓調査事務所が設置され、ようやく本格的な干拓事業がスタートする。事業が完了したのは1977年だった

▼秋田で育った両親の話では、人からお金を借りる時に「もし干拓ができたら返すよ」という冗談があったそうだ。地元でも不可能に思える難事業だったのだろう。開墾しようにも重機が沈んで作業にならなかったという話もある。その人達の苦労の上に今の食生活がある。その晩、旅館で出された「あきたこまち」、いつもと違う気持ちで「いただきます」の言葉が出た。(前・HM)

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