コラム

2007/09/12

終の栖は何処(群馬・KS)


▼友人の家の墓の開眼が東京であると聞き訪ねた。出来て間もないメモリアルだというが、既に売り切れの状態。一坪程度の広さで、肩を寄せ合うように並んで立っている。東京だから仕方ないのか、住宅事情も同じようなものだから

▼友人が言うには「あるだけまし。しかも住まいは、こんな近くなのだから」。「遠くでもよかったんだけど、疎遠になっては申し訳ないから」と長男としての自覚を吐露。あれから30年。白髪が混じったり、髪が薄くなったりと皆それぞれ齢を重ね、それらしくなった

▼突然、お坊さんが「今日はどなたかお見えでないですよね」と話された。友人も面食らった様子。「実は母と息子が」と。故人がそのようなことを言っておられると、また非常に暑い日だったせいか「酒が早く飲みたい」と言っておられるので、「通常であればしないのですが」と前置きし、墓石に酒を飲ませた

▼天衣無縫に生きた親父で、「俺が死んだら骨はその辺に蒔いてくれればいい」と豪語していたという。それが親父の遺志ならば、そうしようと思ったが、墓がなければ後から逝く人の「終の栖家」がなく、路頭に迷ってしまう。亡くなった人はいいが、生きている人は色々考えるんだよ

▼たとえどんなに小さな墓であろうと作り手に気持ちがあれば、亡くなった人はきっと満足してくれるはず。遠くに置くより、近くに置いて、事あるごとに会いに行ってあげるのが人としての美しい心根ではなかろうか。美しい国づくりを目指すのはいいが、置き忘れていけないのは人としての気持ち。そうすれば自ずと美しい国が生まれ続けていくのではないだろうか。(群馬・KS)

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