コラム

2008/01/10

正月の富士に思うこと(新潟・KY)


▼正月、半年ぶりに山梨の実家に帰省した。庭先に出ると、いつもと変わらぬ富士山が見える。自然がつくりあげた絶妙な均衡を保った裾野を大きく広げる富士山は、移り変わる空や雲、光、風などにより彩られ、その時々の景色を描く。冬の晴れ空の澄み切った青に、山頂から被った雪の真白が映える富士山を見ると、爽快感とともに、気が引き締まる

▼富士山といえば、昔読んだ直木賞作『強力伝』(新田次郎著)が心に残る。この小説は、山に荷物を運び上げる職業「強力」として実在した人物のエピソードをもとに描かれた。富士山で随一の強力として知られた主人公の小宮正作は、白馬岳の山頂まで50貫目(約187?)もある方向指示盤という巨石を運ぶ仕事を依頼され、引き受ける

▼富士山しか登ったことのない主人公は、並外れた体力と精神、経験に基づく技術により、急斜面や大雪渓など困難な条件を克服し、ついに頂上まで巨石を担ぎ上げた。本来なら英雄伝の類の話だが、結末では、全てを成し遂げた主人公の、達成感もなく、ただ疲労感のみ感じた絶望の表情が描写されている。山という大きな自然に対する職人としての責務を果たす自らの行為の虚無感のようなものなのだろうか

▼主人公にとっての富士山は、どのような存在だったろうか。この本を読んだあと、興味を抱き、富士山に登った。7合目で断念したが、地上から見た穏やかな姿とは異なり、山には、簡単には近づき難い労苦と、畏れに似た緊張感があった

▼神々しいまでの正月の富士山を前に、年の初めに思う。「いつの日か、また、登ろう」。新たな発見を求めて。(新潟・KY)

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