コラム

2011/06/29

あいまいからの脱却(群馬・SS)

あいまいからの脱却

▼「昨日な、お土産に大きいつづらと小さいつづらのどっちがええかって聞かれてん。小さいつづらには親切な何か、大きいつづらにはお節介な何かが入ってるって言うんよ」「お節介な何かはいらんなあ」「いらんやろ?でも親切なつもりでも相手にとってはお節介なこともあるやん。つまりな、両方とも私にとってお節介って可能性もあるやんな」「あるある」「でな、もういいわって親切な何かをもらってきてん。持ってきたから一緒に開けよか」「うんうん」「あぁお節介やわ」「私には親切やで?」。少し前にラジオから流れてきたCMの一節だ。親切とお節介の境界のあいまいさを訴えている。

▼大震災の被災地に送られる救援物資の中にも古着や生ものなどミスマッチがあるという。送り手はまさしく親切のつもりなのだが、受け手にはお節介でしかない物資も。

▼筆者にも苦い経験がある。ありきたりだが満員電車で前に初老の男性が立った。親切心から席を譲ろうと声をかけたが年寄り扱いするなと一喝された。正しい行動だったのだろうかと自問自答する機会となった。

▼あいまいなのは親切やお節介だけではない。言葉の持つニュアンスもそうなのだろう。永田町では「一定のめど」という言葉の解釈で揺れた。ある者が6月末を主張すれば、別の者は年明けだと言う。言葉の難しさを感じる。

▼口癖のように『ぼちぼち』と言ってしまうことがある。「調子はどう?」「ぼちぼちです」「それ美味しい?」「ぼちぼちです」。議論を呼んだ「一定のめど」以来、我が振りを直さねばと戒めた。言葉や行動には常に責任が付きまとうのだから。(群馬・SS)

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