インタビュー

2005
2005/12/12
都市機構小野理事長
2005/11/25
米澤榮三神奈川県建築士事務所協会会長
2005/11/23
内藤幸一神奈川県電業協会会長
2005/11/21
川本守彦神奈川県空調衛生工業会会長
2005/11/08
並木鷹男千葉県電業協会会長
2005/11/07
群司正幹千葉県建設業協会会長
2005/11/04
国交省佐藤事務次官
2005/10/20
小山弘倫長野県測量設計業協会会長
2005/10/19
宮本忠長日本建築士会連合会会長
2005/10/18
香坂勝長野県建設業協会副会長
2005/10/17
中澤英長野県建設業協会会長
2005/10/14
花市頴悟建設コンサルタンツ協会北陸支部長
2005/10/13
齋藤国雄新潟県建築設計協同組合理事長
2005/10/12
小熊廸義新潟電設業協会会長
2005/10/11
井上平一郎新潟県建設業協会副会長
2005/10/10
松山鶴吉新潟県建設業協会会長
2005/09/27
国交省中島技術審議官
2005/09/26
国交省大森雅夫審議官
2005/09/15
小山正夫埼玉県建設コンサルタント技術研修協会会長
2005/09/14
桑子喬埼玉建築設計監理協会会長
2005/09/13
佐野良雄埼玉県電業協会会長
2005/09/12
関根宏埼玉県建設業協会会長
2005/09/08
東京都大橋環境局長
2005/09/08
秋山隆群馬県建築士事務所協会会長
2005/09/07
阿久澤茂群馬県電設協会会長
2005/09/06
守屋泉群馬県建設業協会副会長
2005/09/05
小島秀薫群馬県建設業協会会長
2005/09/02
国交省渡辺和足河川局長就任会見
2005/09/01
国交省峰久国土交通審議官就任会見
2005/08/30
東京都谷川財務局長
2005/08/29
国交省竹歳総合政策局長就任会見
2005/08/29
内田久雄千葉県建築士事務所協会会長
2005/08/26
中村啓山梨県測量設計業協会会長
2005/08/25
東京都総務局長・高橋功
2005/08/25
天野辰雄山梨県建築設計協会会長
2005/08/24
国交省清治技監就任会見
2005/08/24
廣瀬清作山梨県電設協会会長
2005/08/23
向山昭山梨県管工事協会会長
2005/08/22
国交省佐藤事務次官就任会見
2005/08/22
穂坂一人山梨県建設業協会副会長
2005/08/19
石井由己雄山梨県建設業協会会長
2005/08/18
方波見正茨城県測量設計業協会会長
2005/08/17
横須賀満夫茨城県建築士事務所協会会長
2005/08/16
東京都依田都市整備局技監
2005/08/16
平堅次茨城県電設業協会会長
2005/08/11
東京都前田下水道局長
2005/08/10
横須賀武士茨城県管工事業協同組合連合会会長
2005/08/09
藤田清治茨城県建設業協会副会長
2005/08/08
岡部英男茨城県建設業協会会長
2005/08/05
三栖邦博東京都建築士事務所協会会長
2005/08/04
小島兼芳東京電業協会会長
2005/08/03
?須康有東京空気調和衛生工事業協会会長
2005/08/02
内田興太郎東京建設業協会副会長
2005/08/01
白石孝誼東京建設業協会会長
2005/03/17
前田全建会長
2005/03/10
脇参議員
2005/03/08
岸田衆議員
2005/03/07
阿久津衆議員
2005/03/03
国交省門松技術審議官
2005/03/02
国交省中島審議官
2005/03/01
平島前日建連会長
2005/09/15

小山正夫埼玉県建設コンサルタント技術研修協会会長

・経営の基本は人材育成

・座右の銘は『忠恕』

 

 埼玉県建設コンサルタント技術研修協会の小山正夫(こやま・まさお)会長は、栃木県阿久津村(

現・高根沢町)で大正11年8月20日、農家の三男坊として生まれた。腕白坊主で知られ、小学校時代

はガキ大将振りを発揮していた。

 小学校4年までは分教場で学んだが、5、6年生は本校の村立阿久津小学校へ通学する。この時、

トップに居たのは体格も立派なK。小山氏はナンバー2の座にあったがある日、Kと校庭で決闘する

ことになった。まともに戦ったのでは体格差、体力差から勝ち目は無いと、奇襲戦法に活路を見出し

勝ちを掴んだ。それ以降、ボスの座に就き、地区の子どもを引き連れて遊んでいたという。

 当時の喧嘩にはルールがあり、際限なくやるということはない。子どもでも限度をわきまえ、相手

に大怪我を負わせるようなことも無かった。相手がギブアップしたところで終わり、負けた相手は恭

順する。成人してからも、「喧嘩にはルール、限界がある」。この考えは常に持っており、相手を完

膚なきまでに叩くような戦いは避けるようにした。

 旧制中学を卒業したころから日本には戦雲が広がった。20歳になると徴兵検査を受け、甲種合格。

宇都宮の陸軍第14師団第59連隊に入隊。旧満州ヘイロンチアン(黒龍江)省チチハル(斉斉哈爾)に

派遣後、リューション(旅順)の予備士官学校に入る。しばらくして、第14師団に南方戦線への転戦

命令が下る。教官から「原隊に復帰するか、旅順に残るか」好きな方を選べと言われ、「戦友のとこ

ろに戻ろう」と原隊に復帰。南洋諸島のパラオに移動、終戦までの2年間を過ごすことになる。

 パラオでは、米軍上陸で1万2000人が全滅したペリリュー島で近代装備を施した物量の米軍に

対する戦闘。死を決し、兵舎を出たところで、作戦変更命令が出て、辛くも命を拾った。

 平成15年4月、小山氏を団長とする「パラオ諸島慰霊巡拝団」が、パラオ共和国を訪れる。約60年

振りのパラオ。激戦の地を訪れ、当時を振り返った。帰国後も数日は、「亡くなった多くの仲間の顔

が夢に出てきた」。

 終戦後の昭和21年春、浦賀に帰ってきた。ちょうど、神奈川県巡幸中の昭和天皇が浦賀においでに

なり、お言葉を賜り、感激した思い出が。後に昭和天皇崩御、大喪の礼に際しては、全国測量業団体

連合会会長として参列、陛下を間近でお見送りすることになるとは、と感慨深げ。

 復員後、小山氏は幾つかの会社を設立するが、戦後の混乱期で、大きく成功することはなかった。

当時、栃木で野州塾という、青年を集め勉強会を開く集まりに参加し、事務局長を務める。当時の塾

頭、竹井博友氏との出会いが、小山氏の運命を変えることになる。

 竹井氏が「埼玉新聞」の経営を引き受け、小山氏にも「3年でいいから」と協力を求められた。そ

の時30歳。

 用意されていたのは、販売部長のポスト。新聞業界はまったくの素人。「寝ても覚めても、どうし

たら部数が増えるのか。絶えず頭から離れなかった」と振り返る。ようやく慣れ、軌道にも乗り始め

た1年半後、今度は広告部長に異動となる。

 当時は100円、200円の広告が精一杯だった頃、「広告は1万円以上とらなければ、メシは食

えない」と考え、「広告は企画である」と「首都圏の産業」をテーマに成績のパッとしない部員を連

れて歩いた。浦和市内を廻り、4社ぐらいの広告が取れた。これを、同行させた部員の成績にし、部

会で披露。これではベテラン部員のプライドが許さない。全員が闘志を燃やして営業にあたり、広告

倍増に結びつけた。広告部長時代には、竹井氏の?地産で監査役にも就任。地産建設?では40年12月

に代表取締役社長となる。この3年後、小山氏は、共和コンサルタント?を設立。

 昭和43年4月、地産建設の社長を退く。45歳を迎え、自立するのにギリギリの歳だったと腹を決め

た。ただ、辞めたあとも何をしようかと迷ったという。

 当時埼玉県は、首都圏にあって、都市整備が遅れている。逆に将来的に、都市計画系のコンサルタ

ント分野は将来性のある分野。測量業は戦後生まれの業種だから、新参者が力を発揮するのには持っ

て来いの場。昭和43年4月13日、地産建設から行動を共にした仲間たちと共和コンサルタント?を立

ち上げ、代表取締役社長として、一国一城の主となった。

 「会社は社会の公器である。我等は常に技術者としての本分に徹するとともに、国土開発計画の推

進のために努力具現し、以って国家建設、発展に寄与し、繁栄と幸福の招来せんことを期す」ー。こ

れは、社訓であり、小山氏の基本的な考え方。

 会社がスタートしてから2年間ほどは、大変苦労した。しばらくは無報酬で我慢、逆に社員には手

厚い待遇をしていた。社員の面々は、意欲に燃え、必死になって頑張ってくれた。

 『攻撃は最大の防御』の言葉もあるように、昭和45年からは、攻めの政策に転じる。資本力増強へ

増資を行うとともに、社員を増やし営業体制を強化するなど、会社の基礎を築いた。

 小山氏は、会社の経営について原点は、人材育成と語る。「会社を支えているのは社員」との考え

から、人材育成には力を入れ、技術力の向上を図っている。

 共和コンサルタントの設立当時、県内には測量業者が少なかった。全国組織の全国測量業協会加盟

も7社のみ。40年代の埼玉は、測量業の需要も高かったが、大半の事業は県外業者に委ねられていた

。この状況に愕然とする。このまま手を拱いていたのでは、埼玉の業者は取り残される。10社が母体

となり、現在の?埼玉県測量設計業協会の前身となる埼玉県測量業協会が任意団体として誕生する。

 47年の通常総会で、小山氏が会長に選出。法人化を最優先課題として取組み49年11月、社団法人と

しての設立総会を開き、初代会長に選出された。54年12月には埼玉県測量設計業協会(埼測協)に改

称した。

 埼測協の会長として活動してきた小山氏は、全国組織の設立にも期待を寄せていた。当時、47都道

府県の協会の連合体を創る機運が高まっており、59年には、全国測量業協会を発展的に解消、連合会

に衣替えた。59年6月から約2年間常任理事、61年6月から2年間副会長、63年5月から平成2年7

月まで会長を務める。

 会長在任中は、構成3600社の将来を担っていることもあり「この人たちのために何をしなけれ

ばならないかを常に考えた。広範囲から情報を収集。業界の安定のために情熱を注いだ」と振り返る

。また、常任理事広報委員長時代に提案した「測量の日」制定についても、会長在任中に実施され、

制定記念日を挙行できたことは感慨深いと。

 会長在任中から業界の多数を占める中小企業のため、どうしたら良いか考えていた小山氏は、新た

に「日本測量設計業経営協会」を立ち上げる。近い将来、社会資本整備が成熟期を迎える。事業量の

減少から企業としてどう経営するかが問われる時代が来るとの危機感から、経営者はもちろん、幹部

社員の資質向上を目指し設立したという。

 埼玉県建設コンサルタント技術研修協会は、9年7月に設立。会長に就任した。埼玉県の8年度設

計関係発注事業のうち、地元受注率は27・4%どまり。低い水準に甘んじている最大の要因は、技術

不足にあると考えた。このため、発注機関が要求する有資格者を育成するなど条件を整えることが急

務、自助努力しかないと設立、12年4月には社団法人化した。また、15年には、関東地区建設コンサ

ルタント協会連絡協議会を設立、会長に就任。

 さらに16年10月、全国(県)建設コンサルタント業協会連絡協議会を立ち上げ、会長に就任する。

財政難から公共事業が減っていく中、地方の中小業者が生き残っていくには単独の力では限界がある

。そこで各地域の業者が集まり協会を作り、情報交換や様々な課題の検討を行っていくべきだと考え

設立している。現在の最大級の課題は、プロポーザル方式の普及をどう考えるか、またダンピング問

題と話す。

 これら、各協会など会長を努める小山氏の行動は、地方の中小コンサルタントが生き残っていくた

めの方策として、技術力強化を一貫して見据えている。発注者側の期待に応えられるだけの技術力が

あれば、仕事は受注できるはずだと。

 小山氏の座右の銘は忠『恕』。真心と思いやりがあること、忠実で同情心が厚いこと。孔子が説い

た『仁』の基本。共和コンサルタントの社是・社訓は『忠恕』が原点になっている。また、仕事の原

点は『礼節』とも話す。「礼に始まり、礼に終わる」。営業の仕事も、営業先で最初にきちんと挨拶

する。最後は姿勢を正し、謝礼を言って帰る。相手の評価も高まり、信用も上がる。

 もう一つ大事なことは、相手の立場を考えること。

 社員には、「自分が嫌なことは、相手も嫌なはずだ、ということを忘れてはいけない。こう言われ

たら嫌だ、こうされたら嫌だと思ったら、それはそっくり相手に当てはまる」と話しているという。

技術を売る商売だが、技術至上主義ではない。相手の立場を100%理解できるというのが前提条件

だという。

 趣味は、ゴルフ。1か月に3回程度、健康管理を含めて、クラブを振っている。



【略歴】

▼昭和30年 ?埼玉新聞に営業局企画部嘱託として入社

▼同36年 ?埼玉新聞取締役、総務局長

▼同39年 地産建設?代表取締役副社長

▼同40年 同代表取締役社長

▼同43年 共和コンサルタント?設立、代表取締役

▼同47年 埼玉県測量業協会会長

▼同63年 ?全国測量業団体連合会会長就任

▼平成4年 日本測量設計業経営協会設立、会長に就任

▼同9年 埼玉県建設コンサルタント技術研修協会設立、会長

▼同年 勲4等瑞宝章を受章

▼同15年 関東地区建設コンサルタント協会連絡協議会設立、会長

▼同16年 全国(県)建設コンサルタント業協会連絡協議会設立、会長

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