齋藤国雄新潟県建築設計協同組合理事長
・職能を通じて社会貢献を
・「水の都新潟」を提案
「特に経営方針や尊敬する人などは考えたことはない」と堂々と言い切る。実にいさぎよい人であ
る。
こう話すのは、新潟県建築設計協同組合理事長・齋藤国雄(さいとう・くにお)氏。昭和17年8月
5日に北蒲原郡松ヶ崎浜村(現・新潟市松浜町)に8人兄弟の次男として生まれた。小・中・高校と
陸上部に所属し、中長距離ランナーとして活躍する一方で、建築模型にも夢中になっていた。有名な
建物や、近くの神社などをスケッチし、それを元に竹や木材を削って模型を作っていたという。これ
が結構、周囲の人間にも好評だったようで、「それが今思えば、建築を目指すきっかけとなったのか
もしれない」と当時を振り返る。
大学は福井大学の建築学科を選択した。だが、当初は強い意気込みで入学したわけではなかったと
いう。「ただなんとなくという気持ちで入ったけど、いろいろ学んでいくうちに建築学の面白さにハ
マりました。その中でも、建てるより計画したり、考えたりする設計のほうが自分には向いていると
思い、建築設計を目指し始めました」。
卒業後は、(資)青島設計室に入社。その後、3年目には自ら希望し、マレーシアに赴任することと
なった。そこで建築家として大きな衝撃を受ける。
「マレーシアはイギリス統治の長かった国であったので、建設スタイルがイギリススタイル。つまり
、アーキテクト(建築家)が中心。アーキテクトがすべてのサブコンを動かすんです。一方、日本で
はゼネコンスタイルが中心。すべてはゼネコンが支配してる。この違いに建築家としての『立場』と
『権限』そして、『責任』の大きさを認識させられましたね」と語る。
その後、?安井建築設計事務所に移り、銀行やその関連施設の設計を担当した。しかし、大組織とい
うこともあって、直接建主と会う機会がなかったという。「自分としては、建主の考えを直接聞き、
また自分の考えを直接伝えながら設計をしていきたいと思ったんです。そしたらもう、独立するしか
ないだろうと思って」
そこで手応えのある設計活動をするため、生まれ故郷である新潟に戻り、昭和46年に齋藤建築研究所
を開設した。(後に?GA設計へ移行)。しかし、始めのうちは全く仕事がなかったという。結婚し
て間もなかったこともあり、義父が見かねて、「建設会社の下請けを紹介してやる」と言ってきたが
頑として断った。「いずれ自分でちゃんとした設計事務所として身を立てたいという強い気持ちがあ
ったので、始めから頭を下げて仕事をもらうのが嫌でしたね。おかげで、しばらく水飲み設計事務所
をやっていましたけど」と笑って苦労時代を話す。
その後徐々に仕事も増え、多くの建物の設計を担当してきたが、特に印象に残るのは友人である印
章の?大谷の社長との出会いであったという。その時に、初めて職場が無いため社会に出ていけない
障害者がいることを知る。「障害者雇用は相当規模の事業所には雇用義務があり、施設建設及び整備
には補助金が支給されていますが雇用者の苦労は大変なもの。しかし、?大谷は、社会に出ていけな
い障害者を多く雇用し、技術を取得させて障害者の社会参加と自立に尽力しているんです」その姿に
敬服し、後に新潟県内の多くの障害者多数雇用事業所の設計を手掛けることとなる。また、現在齋藤
氏は障害者雇用の窓口となっている新潟県雇用開発協会の技術顧問も務める。
異業種団体でもある新潟青年会議所に在籍したことも大きな財産となった。このときに職能を通じ
て都市問題、街づくりに対しての提案と推進に係った。それが現在、新潟市のイメージにもなってい
る『水の都新潟』である。何を隠そう、これを提案したのが齋藤氏。「新潟の街のイメージを作ろう
ということになった時に、他の都市のことを考えてみると例えば、杜の都仙台、水の街大阪など、都
市にはその都市が持つイメージがあると。それで新潟といえば、日本海や鳥屋野潟、信濃川が思い浮
かび、新潟のイメージを『水』に求めました」。
当時、ちょうど北陸地方建設局(現整備局)も信濃川河口で堤防整備を計画していた時期でもあっ
た。そこで、当時の市長にも提言し、イメージづくりを推進。後に新潟青年会議所の大きな活動の一
つになっていった。具体的な形として日本海や鳥屋野潟、信濃川の水辺空間や、景観の整備を推進し
、特にシンボルゾーンとして新潟市中心部における信濃川周辺の整備と水辺を活かした街づくりの提
案を行ったという。「おかげで、25年の時を経てやっと『水の都新潟』のイメージが定着したかなぁ
と思います」と顔をほころばせる。これ以前新潟では『水』はどちらかというと負のイメージがあっ
たというが、今や『水の都新潟』は、誰もが口にする言葉でもあり、イメージでもあるのはいうまで
もない。
新潟県又は新潟市建築設計協同組合については、設立時からの組合員だった。設計業務や街づくり
のための数々の提案等を同業者とともに長年供同作業でやってきた。「特に提案業務(まちづくり、
建物等)は、手弁当での作業が多く、ボランティアみたいな感じでやっているところもありました。
しかし、おかげで、県や市の街づくりや建築作りに少しは貢献できたと思っています。またこういっ
たことは、一個人事務所ではできなかったと思っていますし、最終的にお互いの意識と技術の向上に
も繋がったと思いますね」と話す。
今後の業界の課題としては、「新築建物の減少」「耐震補強、改修設計の増大」などを挙げ、「一
時期、学校や庁舎関係をたくさん造ったが、今それを造り直すか、改修して使うかの時期になってい
る。発注者は予算が減っているので、ほとんどが耐震補強や改修設計。これから耐震についてはいろ
いろ工夫しながら取り組んでいく必要があります。組合では、専門家を集めて、独自の耐震判定会を
設置し、耐震診断、補強設計を行っています」。また今後の展開については、「これからの時代、設
計者は、建築設計だけではやってはいけません。設計者は、職能を生かして他分野へ積極的に進出し
、開拓していくべきだと私は思います。例えば、コンサルや特許製品の開発など」と今後の建築設計
業界のあり方を説く。
設計入札の問題については、「本来、設計入札なんてものはあってはならないもの」とキッパリ。
「制限価格のない設計入札でいいものができるはずがない。発注者は落札価格がどんなに安くても構
わないという立場ですが、これでは建築の基礎である設計力が低下し、設計事務所の弱体化が進んで
しまう。けれども、国や地方自治体はなんの対策もとっていないのが現状です」と発注者の責任を追
及する。プロポーザル方式に関しても、「形の提案の無い文書だけのもの。このような提案だけでど
のような建物か判断できるのでしょうか。形としてどうなるのかという問題の方が大事。むしろ公開
コンペのほうがいい」と提案する。
組合組織運営にあたっては、自身が所属するロータリークラブの中で行われている『四つのテスト
』を念頭においているという。?真実かどうか?みんなに公平か?好意と友情を深めるか?みんなの
ためになるかどうか―。この考え方を念頭に置き、「県内の設計者が地元でいい建築を残し、組合組
織と設計活動を通じて日々努力し、組合員同士の協同業務、組合内での設計競技などを通して地元設
計者の技術向上と社会的地位の向上に努めています」。
自身の経営方針については、全く考えたことがないと話す。「設計事務所は、建築士の思想信条に
よるところが大きく、かなり個人的なところがあり、社会状況によるところもあります。ですから、
事務所の規模、形態はその時の状況によって柔軟に変わるものだと私自身思っています。ただ、建築
設計という職能を通じて社会貢献が出来ればいいと考えています」と。
座右の銘は、『健全な肉体に健全な精神が宿る』。
「やはり体が基本。体がダメになると集中力や思考力がなくなります。しかし、体がしっかりして
いれば集中力や思考力も出てきます。とにかく健全な精神と情熱を失わないようにしたいですね。単
純かもしれませんが」と健康に気を遣う。
10年ほど前からマラソンを再開し、週2回10?から20?を走っている。毎年、新潟市民マラソンに
も参加し、ハーフマラソンを2時間余で走るタフな人でもある。「そういえば、何事も長期的な捕ら
え方をするので、いわばマラソン人生かな?」と自身の半生をマイペースで黙々と走るマラソンに例
えた。
【略歴】
▼昭和17年8月5日生まれ
▼福井大学工学部建築学科卒業
▼昭和40年 (資)青島設計室入社
▼昭和44年 ?安井建築設計事務所入社
▼昭和46年 齋藤建築研究所(新潟市)開設
▼昭和63年 ?GA設計設立 代表取締役
▼平成3年 新潟県雇用開発協会の技術顧問
▼平成13年 新潟東ロータリークラブ会長
▼平成14年 新潟県建築設計協同組合理事長就任