香坂勝長野県建設業協会副会長
・適材適所へ人材を配置
・情熱を傾けてこそ実業
香坂勝(こうさか・まさる)氏は昭和7年5月6日生まれの73歳。昭和23年3月、県立岩村田中学
校(現・県立岩村田高等学校)を卒業した。多感な時期が戦後の激動期と重なる。東京ほどではない
にしても、現在とは比較にならないほど衣食に不自由であった世代だ。
「物心ついて何がしかのお金で、アメを買って食べたおいしさが未だに忘れらない」と言う。「実
家は農業を営み近くの市場に出荷。兄弟3人と父母の5人暮らしは厳しかった。学校から帰ると、残
ったご飯の中に漬物が入っているのを食べる毎日だった」と回顧する。厳しい状況の中にもかかわら
ずご両親は、品種改良を行って美味しいものを作る。さらに売れ残りをなくすために、知り合いの加
工工場へも出荷していたーという。研究熱心な父を見て「幼な心に父への尊敬の念でいっぱいだった
」と幼い当時を振り返った。
父母にはいつも「家の手伝も勉強もちゃんとしなさい」と言われ続け、香坂氏自身も頑張ったと語
る。小学6年を優秀な成績で卒業した少年は、県立岩村田中学校に入学、勉強して政治家になりたい
と思ったが、研究熱心な父親の影響を受け目標は「ものづくりを盛んにして、皆んなが幸せな暮らし
が出来る世の中にしたい」と方向転換し夢は大きくふくらんでいった。
中学で多感な時期を送りながら終戦を迎え、戦後の民主主義教育が始まる。これまで正しいと教え
られてきたことが全て否定された。香坂少年は「自力で生活出来るようになるには何をすればいいの
か」自問自答を繰り返す毎日を過ごす。出した答えが「ものづくり」。進学のための勉強もし、学校
は卒業。体験学習のつもりもあって、アルバイトで建設会社へ事務員として入った。建設業に入るき
っかけである。
「アルバイト先の社長さんにかわいがられ、いろいろな事を教えてもらった。現場に使いに出ても
大工さんにも気に入られ、大工としての手ほどきも受けるようになり『お前はもの覚えが良い』と褒
められ熱心に取組んだ。そのうち建物の設計も出来るようになった。さらには入札業務にも参加する
ようになり、建設業の業態を知る事になった」と当時を懐かしげに振り返った。
父親のものづくりへの情熱とたゆまぬ努力、家族への思いやりが、香坂氏の人格形成に多大な影響
を与えているようだ。「自分にも出来ることがあるのではないか。学歴にはこだわらず、社会に貢献
する事がないか、特にコミュニティの重要性、社会人としての責務を感じた」と言う。自分の置かれ
ている状況を考え「地域社会の発展に資する基幹産業である建設業に自分の将来を託してみよう」と
考えたと語る。地域の人達と話し合って、香坂建設を設立(昭和35年4月)した。
建設業者は身内意識で地域住民とのかかわり合い、交流し、ふれあいを大切にして来ている。「お
らが地域を守り、良くするための事業として、皆んな一所懸命良い仕事をして、他所には負けるなの
意識が旺盛だった。それが『おらが会社』を良くする事にもなる」と口調に熱を帯びる。
建設業に身を置く者として、また建設会社の社長として常に「基幹産業としての役割・責任を自覚
し、進み行く環境の変化を見極めなければならない」と語る。長野県における建設業は、急激な公共
事業改革と事業の減少で『津波のあとの被災地』とも言える。現状を鑑み「事業量が激減する中で、
再生・再編を考える必要がある」とした。
香坂氏は長野県建設業協会で経営改善・再生・再編等調査検討委員会でも活発に意見を出し、長野
県の建設業界が置かれている厳しい状況を打破するため日夜知恵を絞っている。経営改善は「企業は
社員全体のもの。厳しい現況の下、全社員の意識改革が必要で、1人の力には限界がある。経営者と
社員が一丸となって行い、作り上げていくもの」と考えている。さらに再生・再編について「時局に
応じ臨機応変に対応して人材を適材適所へ配置し、生き残り対策を模索する必要がある。ある業者は
専門工事業者に、またある業者は業種転換をした方が良い場合もあるだろう。新規事業への参入も選
択肢のひとつではある。もちろん協業・共同・合併という形態もある」との考えを示すとともに「ど
の策を選択するかは企業経営の問題でもあり協会として『ああしろ、こうしろ』とは言えない。しか
しその選択肢を提示し、成功例や失敗例のほか補助金の受け方などの道筋を提示しておかなければな
らないと思う。いずれにしても協会員全員が本業でこの難局を乗り切ることが出来れば一番良いこと
ですが、なかなか難しそうだ」と憂えた。
今、日本は不安定社会で不況から脱しきれず、国も地方も構造改革を錦の御旗に大型事業を見直し
、中止してきた。長野県でも、唐突に県財政の立て直しなどについて表明がなされ、地元や県議・県
庁内を頭越しに行政が進んだ。確かに透明性・公平性は向上した。しかし、県議会と知事の確執につ
いて挙げれば枚挙にいとまがない。香坂氏は「地域の問題を地域と県議会がどのように県と国にアク
セスし、どう解決していくのかがこれからの課題となる。そのリーダーシップを取るのは知事。未来
のため、対話と協調で全国に発信しなくてはならない」と苦言を呈した。
近年の建設産業界はかつて経験した事のない困難な局面を迎えている。常態化しつつあるデフレ経
済の下、建設投資が公共も民間も激減している反面、国土交通省すら供給過剰と言う建設業者数。少
ない仕事を奪い合うように競争が激化し、ダンピングが多発している。このような環境の中「永年に
亘って築き上げて来た業者間相互の信頼関係が失われただけでなく、元下関係までが根底から崩壊し
ようとしている状況にある」と嘆いた。
最近のニュースではキレる子供だけでなくキレる大人までが話題に上っている。「自分の取った行
動の間違いや言動に気づいた時、大抵の人は『しまった』と反省し、これからは気を付けなければと
考える。難しいことかも知れないが、自分の非を素直に認め改め、相手を理解し信じる事と許す事。
それが自分にとっても、企業にとっても大切な事だと思う」と語った。世の中は共同生活で成り立っ
ており、協調しあってこそ社会の仕組みが構成されている。自分1人の世界ではない事を自覚し「隣
人を愛し、進むところに明日への希望と未来がある」と切々と訴えた。
社員教育や後継者問題について香坂氏は「努力して報われる環境づくりが大切」とし、「ものづく
り技術の伝承、技術革新・健全経営・合理化を進め、人材を優先し企業を次世代に形として残す」こ
とで後継者問題は乗り越えられる-とした。
「本田宗一郎と井深大、両氏の知恵と志、2人の生き方に共鳴を覚える」と言う。ともに技術者そ
して経営者として日本が世界に誇るホンダとソニーという企業を創りあげた創業者。創意と技術で夢
を実現させ、あらゆる苦境をものともせず失敗をおそれずにチャレンジを続け、敗戦後の焼け野原の
町工場を世界に通用する製品送り出すメーカーに作り上げた。「ものづくりに対するこだわり、夢、
グローバルな視野、他人に出来るわけがないと言われても挑戦し続け、失敗の中からアイデアや閃き
を生み出す。絶えざるチャレンジ精神を持ち続ける心が成功へ導く」とし、取り入れられるものをす
べて取り入れ、一つひとつ苦労して自分自身の手で作り上げていく「情熱を傾けてこそ実業」と語る
口調は熱い。
好きな言葉は『不惜身命(ふしゃくしんみょう)』。この不惜身命は仏教で使われた言葉。平成の
大横綱・貴ノ花が、横綱昇進時に自らの決意を表した言葉として記憶されておられる方も多いことで
あろう。「自分の信ずるものに骨身惜しまず最善を尽くす」-という意味。香坂氏の半生そのものを
示す言葉と言えるだろう。また『不易流行(ふえきりゅうこう)』という言葉も。俳聖・松尾芭蕉が
俳句の作法の原則を謳ったと伝えられているこの言葉の意味は「絶えず新しさを追求し変化していく
が、いくつかの原則を不変の鉄則として維持し根本は一つに帰する」ということだそうだ。こちらは
現在の建設業がおかれている社会情勢とその荒波を乗り越える企業経営の指針なのかも知れない。
また一張一弛(いっちょういっし)という言葉も。この言葉は『絃を強く張ったりゆるめたりする
こと。転じて人に対して厳しくあるいは優しく接したりすること』で、緊張と弛緩の両方が適度に調
和し、バランスをうまくとることではじめて成果が得られる-ということ。香坂氏曰く「心の健康、
ストレス解消、老化対策等々、現代人の抱えている諸々の問題にも、ぴったりの言葉」である。
最後に人生の指針について香坂氏は『正直』と答えている。「正義の心を持って相手を立てること
であり、筋を通せば信頼を得るものです。真心を込め打込んで、相手に接すれば自ずと信頼が得られ
る。信頼は人生を生き抜いていくうえで最大の財産」と断言した。
【略歴】
▼昭和7年5月6日生まれ
▼昭和23年 長野県立岩村田中学校卒業
▼昭和35年4月1日 香坂建設設立
▼昭和43年 株式会社に改組、代表取締役就任
▼昭和57年 小諸市建設業協会会長
▼平成5年 小諸商工会議所会頭
▼平成10年 長野県建設業協会佐久支部支部長
▼平成16年5月31日 長野県建設業協会副会長就任
▼平成17年4月旭日小綬章受章