三栖邦博東京都建築士事務所協会会長

・シカゴ建築に影響
・普遍的な価値を追求
(社)東京都建築士事務所協会の三栖邦博(みす・くにひろ)会長は、現在の日本を代表する建築
家の一人。伊藤忠商事東京本社ビルや日本電気本社ビル、在中国日本大使公邸、イスラム開発銀行本
部ビルなどを手掛けており、数々の輝かしい受賞履歴がある。
三栖氏は幼少の頃から「建築の模型をよく造っていた」という。自宅庭先への子供部屋の増築案や
通っていた中学校の将来計画の模型などを、夏休みや冬休みの工作で造り、作品展によく出していた
。
中学生の時に造った国会議事堂の模型は、その出来栄えの良さ、精巧な仕上がりに、校長室へ飾ら
れたほどだ。「建築が昔から本当に好きだった」と、笑顔で回想する。 東京工業大学在籍時に師
事したのは、清家清氏。「海外の仕事も多かった先生は、学生をよく海外に連れていく方でした。私
も、ニューヨークで開かれた世界博覧会の仕事で先生の助手として一緒にアメリカへ行き、そのまま
残りました」。アメリカでの体験が、現在までのバックボーンになっている。イリノイ工科大学大学
院建築学科で学び、建築の町シカゴで過ごした日々が、設計の世界へ進もうという決意を、より強固
なものにした。
三栖氏は、シカゴの建築に強く影響を受けた一人。アメリカの近代建築はシカゴから始まったと、
よくいわれる。「鉄骨造の高層建物やビル用のエレベーターなどは、第一シカゴ派から始まったもの
。1950~60年代の第二シカゴ派というのは、超高層ビル。第二シカゴ派の筆頭は、ミース・フ
ァン・デル・ローエですね。彼の設計思想に影響を受けた第二シカゴ派というのは、構造表現主義で
す。機能や骨組みなども表現されるべき、という思想ですね」。
「私がシカゴに留学していた頃は、第二シカゴ派の最盛期でした。当時まだ日本になかった鉄とガラ
スによる、シンプルで美しい建物を造りたい、という気持ちを強く持ちました」。イリノイ工科大学
で学んだ後にSOM(スキッドモア・オーイングス・アンド・メリル)シカゴ事務所という、第二シ
カゴ派の中心的な活動をしていた設計会社に勤務。その後日本へ帰国し、1968年、日建設計工務
?(現・?日建設計)に入社した。
帰国した当時、日本は、霞ヶ関ビルや世界貿易センタービルなどの建築プロジェクトが進行中で、
ちょうど建物の高層化が進んでいる時だった。帰国後最初に手掛けたのが、六本木の日本IBM本社
ビル。「オフィススペースとそれ以外の部分をきっちり分けるなど、合理性を追求した建物」で、今
なお「印象深い」仕事となっている。
その後は、次第に活躍の場を海外へ広げていく。ニクソンショックやオイルショックなどの影響で
日本経済全体がスローペースになっていたのが理由だ。「建築界全体が東南アジアを中心に海外へマ
ーケットを求めた」時代だった。
シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイ、中国、台湾、韓国などで仕事をしてきたが、「
一番苦労したのは、北京の中国国際貿易センター」だったと振り返る。1984年に設計を開始し90
年に完成した同ビルは、「当時、建築物としては中国最大のプロジェクト」だった。施工はフランス
の建設会社だったが、監理の仕方、設計者と施工者の責任区分の問題など、開放直後の中国の特殊な
社会事情、建築事情もあり、工事の運営面で苦労したという。加えて天安門事件が起こり、スタッフ
全員、一時帰国した。数週間経過して現場へ戻ったものの、「街の角々に銃を持った兵隊が立つ」と
いう、特異な日常の中での仕事となった。
また中国では、世界遺産となっている敦煌莫高窟での仕事にも携わった。それらの豊富な経験から
「海外で仕事をして思ったことは、我々が日本で目にするような、目新しいものをそのまま持ち込ん
でも駄目だということ。技術レベルやメンテナンスの観点から、その土地に合った材料や工法を使う
必要がある。また、その土地で育まれたものなら、気候や風土に合い、たとえ将来風化したとしても
土に戻りますから」と、高層ビルと対極といえる考えも合わせ持っている。
そういった体験により、「昔の人の知恵の中には、今も生かせることが随分と多くある」ことを実
感。ヒートアイランドが問題となっている東京の街についても、「風通しをもっと考えなければいけ
ない」。「都市気候について、これからは慎重にデータを集積すべきでは」と提言する。「風の道」
を認識し、その道を閉じないように建築している、ドイツのフランクフルトの事例は、説得力がある
。
景観法については「すべての建物は、私たち建築士事務所によって設計されています。各々の地域
で街並みや景観を形成する建物を、日々の仕事としてひとつひとつ手掛けている数多くの建築士事務
所の、景観に対する意識の改革とレベルアップをしていかなければならない」と、重要性を強調する
。
三栖氏は現在、創業105年を迎えた?日建設計の取締役会長職を務めている。経営者としての舵
取りについて「私たちの事務所は、会社名に個人の名前が入っていません。その都度、選任された人
が経営を引き継いでいます。なぜ、そうしているのか。それは、造られた建築に設計者として責任を
持ち、顧客との信頼関係をずっと持ち続けるという、永続性が必要だと考えているから。また日建設
計は、株を公開していません。なぜ公開しないのかとよくいわれますが、それは、設計者としての独
立性を維持しなければいけないから。外部からの影響を排除し、信念に基づいて仕事をできるように
。また、建築主のために普遍的な価値を追及していくことが重要です。その時に価値を持つと同様に
、価値の永続性が必要。価値保証という考え方ですね」。
「私たちはこれまで、中立性や第三者性というこを常に大切にしてきました。透明性や説明性が重要
だといわれる昨今、それらはより価値がでてきています」と、自信を持って話す。
設計者とは「建築主の側に立って、いろいろな選択肢の中から、中立的な立場で、純粋技術的な視
点で物事を進めていく必要がある」と、確固とした考えを持っている。 好きな言葉は、「人間万事
塞翁が馬」。マイナスの出来事にもプラスの面があり、プラスの出来事にもマイナスの要素がある、
という例えだ。もう一つ「資源は有限、知恵は無限」を挙げた。
趣味と云えるほどのものはないとのこと。強いて云えば「体を動かすこと」。トレーニングジムに
通うほか、太極拳や山登りもしており、健康管理に気を配っている。また海外も含め「見て歩く」こ
とも好きで、昨年末のスマトラ沖地震の時は、アンコールワットにいたという。
後継者たちには、「時代はどんどん変わっていきます。ますます多様化、複雑化し、勉強すること
が次々と出て来て、昔に比べて、随分多くなっています。私たち設計者は、クライアントが気付いて
いない新しいニーズや抱えている問題に対し、先へ先へと勉強し、応えられないといけない。そうし
ないと、信頼関係は醸成できません。常に勉強し、備えておかなければならない、ということです」
。
〔略歴〕
▼昭和16年・神奈川県横浜市生まれ
▼昭和38年・東京工業大学理工学部建築学科卒業▼昭和41年・イリノイ工科大学大学院建築学科
卒業
▼同年・SOMシカゴ事務所入社
▼昭和43年・日建設計工務?(現・?日建設計)入社
▼現在、同社取締役会長