佐野良雄埼玉県電業協会会長

・人材の育成に尽力を
・ドラッカーの経営論学ぶ
佐野良雄(さの・よしお)氏は、昭和18年生まれ。実家は歯科医院を営み、兄弟や親戚もみな歯医
者という家柄。
幼児期に、今でも鮮明に記憶に残っているのが、戦時中の出来事。昭和20年、当時住んでいた桑名
に東洋ベアリングの軍需工場が爆撃を受けた。まだ2歳にも満たなかったが、歩道には多くの死傷者
が横たわり、防火用水にも多くの人が倒れかかり、水を求めていた様子は忘れることができない。
伊勢湾台風にも遭った。昭和34年だった。「高校生の時だったが、1週間くらい学校が休みになっ
て、家も床上浸水の被害にあった」と改めて天災の恐ろしさを知ったと振り返る。
大学は名古屋の南山大学に通った。カソリック系の大学で、当時から外国人教師の割合が非常に高
く、国際色豊かな自由な校風の中、専攻の経済学に加えて、宗教学も学んだ。「人間の尊厳」が教育
のテーマになっている大学で、それからの人生にも大きな影響を与えてくれた。
大学では、ESS(英語研究会)に入って、そこでまず英語を覚え、その後ゴルフ部に移り、同時
に経済研究会で経済学を学んだ。後に経営学経営部を作り、部長に就任。その頃はスーパーマーケッ
トが芽生え出した時期で、スーパー、ディスカウントストアなどについて、さまざまな研究を行った
。
想い出深いのは、大学の先輩が名古屋国際ホテルの人事部にいて、そこから社内合理化へ向けた調
査をして欲しいとの依頼を受けた時の事。米国では行われていたが、まだ国内では稀少な動線調査を
実施。駅からどのくらいかかるかといったもので、レストランに人を配置するなどして、レポートを
まとめた。それで得たお金をクラブの運営資金に充てるなど、サービス業に対する興味を持った。
そういった経験も積み、卒業後は、長島観光に入社。いろいろな人集めのための戦略などを練った
。
佐野電機?入社後は、営業から始めた。電設工事が3割を占め、また明電舎の代理店として、天井
などクレーンの据付やメンテナンスなども手掛けた。
昭和54年に消防法の改正があって、1000?以上の施設、例えば公民館やスーパーなどに発電機
の設置が義務付けられた。それにより多くのメーカーも生まれた。当時は需要も高く、50社以上あっ
たという。
だが、やはり技術力などで、新規参入に比べ、老舗の会社には1日の長があり、生き残るのは難し
く、今は20社程度しか残っていないそうだ。
佐野電機?には、電設工事事業と機器事業があり、その2つの事業部制を強いていた。しかし、時
期によっては片方だけが忙しいなど、仕事量の点で均衡がとれない事態が発生することもしばしば。
当時からその枠に囚われず、一緒に仕事に取り組んでいたが、4年ほど前から事業制を廃止した。
さらに営業統括部を創設。そこでは電設、クレーン、商社としての営業を一つの舞台にした。それ
により、ひとつではく、トータルな営業が可能になった。縦割りの関係が無くなった。
これは現場でも採用している。工事部として、クレーンのサービスを行っている者、電気工事のメ
ンテナンスに従事している者とに分かれていたのがペアを組み、お互いの仕事を覚えることなども行
っている。佐野氏の『多目の時代なのだから』との考え方によるものだ。
無線によるクレーン作業は、人の立ち入りが困難で、危険な場所でも遠隔操作で行えるため、好評
だ。
もともとクレーンは、4割が機械設備で、残り6割が電気工事の内容。故障の頻度も当然電気が多
い。「だからクレーンに従事してきた者は、ある程度電気に精通しているんですよ」と説明。さらに
「工事の直営部隊は、この制度により、実質倍の人数が動けるようになり、お客様から見ても、安心
度は高くなったと自負してます」と語る。
加えて「もちろんこれまで、行ってきたものもあるので、100%ではありませんが、今後はその
数字を目指して、社員一同邁進していきます」とキッパリ。
クレーンの場合にはトラブルもあるが、メンテナンス時にカバーすることで、長く使ってもらえる
。高頻度なものだから、信用してもらえるものを提供したい―と意欲を見せる。
会社の付加価値も高まっている。これまでは外注に頼っていたのものを、自社で行えることから「
相乗効果で営業面にも影響が出てきている」と言う。
顧客との関わりも変わってきた。以前は新規開拓を進めてきたが、最近はこれまでお付き合いして
いただいたお客様の中で、クレーンと電気の両面で支援していただける方々が増えてきたという。
マンションなどでもエンドユーザーとの取り引きが可能になった。「ダイレクトに、お客様からの
声が届くということで、減収だけど、増益になっているのが、我が社の実情です」と胸を張る。「こ
れからは公共に頼るだけでは、生き残りは難しいので、ますます民間工事にも力を入れていきたい」
と目を輝かせる。
電業協会の会長職に就いて3年目。今、感じることは、「ご存じの通り公共事業は縮小され、民間
の工事なども取り合い、金額のタタキ合いが始まっている。インフラ整備がある程度治まってきたの
に対して、関わる業者の数は減っていない。つまりバランスがとれていない。国交省も数年前から、
建設関連業者は50数万社あるが、30数万社程度が適正との見解を示している」と説明する。
また「ある知り合いの老舗業者がこの業界を去った。特に大幅に利益が落ち込んだという様子もな
いのに。想像すると、この業界の将来が不安で、ある意味見切りを付けたのではないか」と、身近な
話題にも触れた。
「設備屋は役所やゼネコンの仕事がメーン。対して電気工事は、幅が広く、木造、打ち込み、工場
を専門に、受変電設備もやっている、計装などプラント関係をやっているものなど、さまざま」と実
情を語る。
電業協会は建物に関する電気工事の管理を行うもの。ただ浄水場に関しては、市レベルでの受注は
プラントの中に受変電設備の工事が約30%あり、地元の企業でも対応できるといった要旨で、県企業
局に対して要望してから、工事を受注できるようになった。そのあと同様に下水道公社からも工事を
受注している。
もともと下水道は、ほ場と同じプラント系。プラントは常に稼動しているため、消耗も激しく、メ
ンテナンスが必要。下水道広域化に関しては県北地域で今も、処理場をつくるなどしており、需要が
ある。「協会としても、そちらの仕事に向けてみようと、動いている。下水道公社に対しては、さま
ざまな行事に対して、協力を惜しまず、活動しています」と精力的に活動している。
下水道事業については、「まだまだ知識が足りない部分もありますので、勉強会を開くなど、その
仕組みを理解するように努めます。今年だけではなく、来年度もさらに精査していきます」と今後の
指針も示した。
これまで影響を受けた人物をたずねると、2人の名前があがった。
経済学者のP・F・ドラッカー(「マネジメントの父」とも呼ばれる経営学の第一人者であり社会
思想家)は、著書「創造する経営者」の中で、「会社は資源も成果もすべて外にある、社内にあるの
はコストセンターのみ、利益も外にある。経営者は資源を問題にあてるな、機会に集中しろ」という
経営論を学んだ。
また、「イタリア人のパレットという学者がいたんですが、その人の言葉で、だいたい世の中で重
要なことは8対2という法則なんです。仕事を会社の中で本気でやっているのも2割、利益を上げて
いるのも2割、ということなんです。統計学的にも表れているそうです」と語る。
続けて「働き蟻もそうで、本気で働いているのは、20%だそうです。でもその20%だけで働かせて
も、その内の20%しか働かないそうです。逆に80%の働かないものを集めても、そこから20%は働く
そうです」と解説。
これらから、「メーカーだとオートメーション化による部分も多いが、私どものような会社だと、
人材の能力をあげ、パートナーシップを大事にしなければならない。成果主義は必要だが、?和をも
って尊ぶ?という言葉を忘れるわけにはいかない」との理念を持ち続けている。
「これからも人材の育成と教育には、努力を怠らないでいきたい」との言葉に佐野氏の人生観がう
かがえる。
【略歴】
▼昭和41年 南山大学経済学部卒業
▼同48年 佐野電機?入社
▼平成元年 佐野電機?取締役社長
▼同5年 埼玉県電気工事工業組合理事
▼平成14年 (社)埼玉県電業協会会長