渋川地区高等職業訓練校木造建築科/中島友也さん
自分は、「大工」という職業に就き、今年で13年目になります。父が建築業を営んでおり、一緒に働いています。小さい頃から現場に付いて行っては、父の仕事を見てきました。
「大きくなったら、お父さんみたいになりたい!」子どもの頃、誰でも一度は思ったことがあると思います。そんな幼心も高校進学目前になると、だんだん現実化してきて、基礎知識を学ぶため、建築科のある高校に入学しました。
しかし、学校生活も半年を過ぎた頃、働いてお金を稼ぎたいと思い始めたのです。仲の良かった友だちや先輩が定時制高校に通いながら働いていたので、その影響もあったのかもしれません。働き口があった訳でもなく、思いつきの行動で高校を辞めてしまいました。
最初、ガソリンスタンドで働こうかなどと考えていました。でも、父の「一緒に働かないか?」という問いかけに、何の予定もなかった自分は父と働くことにしました。知識も何もなく、全くの素人として大工の道に入ってしまったのです。
中学の時、休みの日に手伝いで、たまに現場には行ったことがありました。その時は、父の手子をしていたので、働く事の厳しさなど全くわかりませんでした。しかし、実際に働いてみると、お金をもらっているのだから、適当な仕事をすれば怒鳴られ、失敗すれば怒鳴られ…と、厳しい毎日だったと思います。
自分が大工になり最初の現場は、地元の祭り山車の格納庫でした。何も知らない自分は、ベニヤ板の裏表も分からず、反対に張ってしまい、作業はやり直し。釘を抜いたベニヤ板は、傷になってしまい、新しい物と交換…。予定では既に終わっているはずの仕事が、2倍、3倍もの時間がかかってしまいました。今では懐かしい思い出です。
仕事を始め、初めての給料日。その頃自分は、1日5000円をもらっていました。給料は、手取りで十数万円。初めて汗水流し、初めて大金を手にした喜び、うれしさ、今でも覚えています。そんな喜んでいる自分を見て、父や母もうれしそうな顔をしていたような気がします。
大工になり、2~3年目の頃、墨付から刻みまで、自分一人でやらせてもらいました。6畳ほどの物置でした。図面を書き、材木の癖を見たりと…。建前が終わるまでは無事に建つか、不安と緊張でいっぱいでした。
自分は、大工になってから父以外の親方の所へ修行に行った事がありません。訓練校に入校したのも、資格が取りたいという理由でした。でも入校してみると、そこは自分にとって新鮮な場所でした。竿車知継ぎ、規矩術など、訓練校に来なければ学ぶ機会はなかったと思います。
講師の先生の作業のやり方、考え、技術はすばらしい物でした。算定法やカンナの技術に自分は強く心を打たれました。同級生の作業等も、とても参考になる事が多々ありました。入校し、最初につまずいたのは製図でした。高校で勉強していた他の生徒は、作業も進んでいましたが、自分は木工の経験は長くても、どうやっていいかわからず、悩んだのを良く覚えています。線の引き方、墨の強弱と知らない事ばかりでした。
今、職場には、親方である父を含め、職人5人がいます。現場がいくつかある時は、2人ずつ組になり仕事をしています。父は仕事の段取りや施主との打ち合わせで、ほとんど現場には来ず、用がある時は電話のやり取りで終わります。
その父が先日、手術のため、1カ月ほど入院しました。建前を目前にしての入院だったので、自分が現場を任されました。今まで幾度となく建前は経験しているし、現場に親父がいないのはいつもの事だったので、軽い気持ちでいました。しかし、その考えは甘い物でした。現場で仕事をするという毎日から、段取りもするという毎日に変わったのです。
建前前日は、事故がなく出来るのか?棟上げまで終わるのか?などと考え心配になってしまい、なかなか寝つけませんでした。建前が終わってからも、材料の準備から施主との打合わせ、建材屋との打合わせと現場にいるより忙しく走り回る毎日。仕事がストップしないよう先に材料の手配と、気が休まる日もないようでした。
今、一人親方だった職人さんが、一緒に働いています。その人が「現場で仕事をしているのが気楽でいいよ」と良く言っていましたが、父の代理をして段取りの大変さ、父の仕事の大変さ、ありがたさというものが、良くわかりました。
今回、裏方に回り、仕事が出来た事は、自分にとってとても良い経験になりました。これからも毎日の仕事の中で修練し、父を追い越すよう励んで行きたいと思います。